TOP INTERVIEW ひと、こと、とき、と 歩み続ける、地下街


代表取締役社長井上 亮
1986年大阪市入庁。
2010年計画調整局都市計画課長、
2013年経済戦略局公園集客担当部長、
2017年IR推進局理事、
2019年都市交通局長、
その後、2022年大阪地下街㈱副社長、
2023年より現職。
INTRODUCTION
2026年6月、大阪地下街株式会社が70周年を迎えました。
その節目にあたり、地下街が大阪の中で果たしてきた役割や、〈歴史の中で仕事をする〉という考え方、
未来に向かってこれからの大阪地下街株式会社が
担う使命について、井上社長にお話を伺いました。

地下街は、
単なる
商業施設ではない
70周年を迎え、私自身がこれまで何を考え、どんな思いで地下街の仕事に向き合ってきたのかを、あらためて言葉にしてみたいと思います。
私は「地下街は普通の商業施設とはまったく違う」と考えています。
商業施設である百貨店やショッピングモールは、その建物単体で完結します。
一方、地下街は駅や道路、広場、周辺の商業施設と一体となって、〈都市の動線〉そのものを形づくっています。地下街とは、人が〈安心・安全〉に、そして〈快適に移動する〉ための歩行空間であり、ここに地下街ならではの果たすべき大切な役割があります。
もちろん、地下街を維持管理するためには商業機能が欠かせませんが、やはり私は、地下街は「売る場所」である前に、「歩く場所」であり、「つなぐ場所」だと考えています。雨の日も、暑い日も寒い日も、多くの方が安心して通行できる。その積み重ねが、結果として〈地下街の商業価値〉も生み出しているのではないでしょうか。
地下街は、ターミナル
づくりそのもの
地下街を語るとき、私はよく「ターミナル」という言葉を使います。〈地下街づくりとは、ターミナルづくり〉そのものだからです。ここでいう「ターミナル」とは、単なる駅(ステーション)という意味ではありません。Osaka Metroをはじめ、JRや私鉄、バス、そして地上の街へと人の流れが立体的に交差するエリア全体を指しています。地下街はその中心にあり、人の動きを整理し、都市機能を円滑に動かす役割を担っています。
私たちが運営する6つの地下街「ホワイティうめだ」「ドーチカ」「コムズガーデン」「なんばウォーク」「NAMBAなんなん」「あべちか」は、すべて大阪の主要ターミナルに位置しています。なかでも梅田は、非常に象徴的な場所であり、「ホワイティうめだ」は、長い間、何もしなくても人が通ってくれる場所でした。
しかし、近年の梅田周辺の再開発によって新しい動線が生まれ、駅が改良され、街区も更新されてきています。
「かつて自然に人が集まっていた場所も、何も手を打たなければ、人の流れから外れてしまう」ことも珍しくありません。地下街は、そうした〈都市の変化を最前線で受け止める存在〉なのです。
大阪の主要ターミナルを
つなぐ地下街


地下街の歴史の中で
仕事をするということ
私が大切にしている考え方の一つに、「歴史の中で仕事をする」という言葉があります。これは、70周年史をまとめるという意味ではありません。今、私たちが行なっている一つひとつの判断は、過去から続く流れの中にあり、同時に未来へとつながっていく‥‥。その意識を持つことだと思っています。
戦後の混乱期を経て、地下街が誕生した高度経済成長期、バブル経済期、そして成熟社会へと至る、〈大阪の変遷の歴史〉とともに存在してきました。その長い時間を積み重ねた上に、現在の大阪地下街があります。
私たちの仕事は、テナントを集めて賃料を得ることだけではありません。街の活性化、安全・安心の確保、都市景観との調和、災害時の対応など、地下街は〈公共性の高い役割〉を数多く担っています。だからこそ、常に「街全体にとってどうあるべきか」を考え続けなければなりません。
私がこの考え方に出会ったのは、若い頃に大阪市の都市計画の部署で働いていたときでした。当時の上司から言われた一言が、今も心に残っています。
「都市計画は100年の計や。歴史の中で仕事をせなあかん」
当時の私は、都市計画の世界ならではの「100年ぐらいの単位で考えろ」という話だと思っていました。しかし歳を重ねて、人間一人が一生でできる仕事は限られていると実感するに到り、今は「大きな歴史の文脈の中で自分の担うべき役割をとことん果たすよう努めることが仕事である」という意味でとらえています。
AI時代だからこそ、
必死になって考える
ことの大切さ
少し話が逸れますが、最近は、AIの進化について話題になることも増えました。私はAIについて、過度に恐れる必要も、過度に期待する必要もないと考えています。
「AIは、ネット上の大規模のデータや言語をもとに、もっともらしい答えを出す仕組み」だと思います。私たち人間の思考も、突き詰めれば過去の経験や知識、言語の積み重ねです。その意味では、AIと人の思考は、決してかけ離れたものではないのかもしれません。それでも、人が考えることには大きな意味があります。条件が限られ、正解が一つではない中で、その時の最適解を必死に探すこと。私は、その姿勢こそが仕事の本質だと思っています。
〈必死になって考える〉ことと、〈歴史の中で仕事をする〉ことは、私の中ではほぼ同じ意味を持っています。過去を知り、現在を正確に捉え、未来を想像する。私たちが積み重ねてきた知見と経験のバックボーンが、判断の質を少しずつ高めてくれるのです。
地下街の歴史は、そのまま大阪のターミナルの歴史であり、都市の成長と成熟の記録でもあります。AIがどれほど進化しても、その文脈をどう読み取り、どう次につなげるかは、私たち〈人にしかできない仕事〉だと思います。

地下街の歴史を
振り返って
大阪地下街株式会社が設立されたのは1956年、ちょうど高度経済成長期の入口にあたる頃です。高度経済成長期は、一般的には1954年ぐらいから73年までの約20年間を指します。当時は、経済が右肩上がりで、人も自動車も一気に増え、地上だけでは交通や人の流れをさばききれなくなっていました。
大阪地下街株式会社の
誕生(1956年)
そこで、地下に人の通路を作り、安全な歩行空間を確保する。さらに、街に不足していた商業施設を作ることで、「地下通路の維持管理費をその商業収益でまかなう」という仕組みが生まれました。いまでは当たり前に感じられるかもしれませんが、当時としては非常に先進的な発想だったと思います。その役割を担ったのが、私たちの大阪地下街株式会社です。
地下街は都市インフラでありながら、事業としても成り立たなければなりません。その両立こそが、大阪地下街株式会社が70年にわたって取り組んできた大きなテーマでした。
交通マヒとなった都心部(北区堂島付近)(「大阪地下街三十年史」より)
時代の変化とともに歩む地下街
しかし近年、地下街の置かれている状況は厳しいものがあります。近隣の競合商業施設の増加や、AmazonなどのECの普及などで地下街の収益は伸び悩み、一方で、設備などの機能更新のコストは高騰しています。
地下街のあり方自体の再構築を考える時代に入ったのです。
また、近年の開発プロジェクトや新しい鉄道の建設により、梅田や難波のターミナル地区における重心は西に移動しています。
地下街は、そのような変化を最も敏感に映し出す場所でもあります。人の流れが変わるとき、地下街は真っ先にその影響を受けます。だからこそ、私たちは「常に街の変化に目を向け続ける」必要があるのです。
未来に向けて、
私たちがやるべきこと
これまでの歴史を振り返りながら、私はこれからの大阪地下街株式会社の使命をこう考えています。地下街は、「街の機能をつなぎ続ける存在」でなければなりません。
売上や賃料だけを追いかけるのではなく、街全体のバランスを考え、人の流れを整え、安心して安全に使っていただける空間を維持する。その積み重ねが、結果として地下街の価値を高めていくと信じています。
目先の利益や正解を追うのではなく、<歴史の中で必死に考え続ける>こと。私たち一人ひとりが「その姿勢を忘れずに、次の時代へと、地下街を引き継いでいくこと」が大切だと思います。
地下街の仕事は、今日だけの仕事ではありません。過去と未来をつなぎ、都市の時間を受け止める仕事です。その覚悟こそが、私たち大阪地下街株式会社の70年を支えてきた原動力なのだと、私は考えています。
